泡沫で儚い記憶

あなたの幸せが ずっと、ずっと、つづきますように。 小さな砂粒があつまって、 大きな岩になるほどに。 その大きな岩の表面に コケが生えるほどまでに。

【雑記】 バングラデシュに3年住んでた僕が今回の事件で思うこと

 

バングラデシュで日本人が犠牲になったテロが発生した。

 

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小学校5年生から中学校2年生の間、父の仕事の関係でバングラデシュに住んでいた。

1980年から1983年ぐらいなので、今から35年ぐらい前。ちょうど多感な年代で今でもはっきりと当時の事を思いだす。住んでいたのは今回の事件のあったグルシャン地区で、昔から大使館が多く日本人がたくさん住んでいた。だいたい日本人が住んでいるのは治安のいいグルシャン地区か、ちょっと北に行ったバナニ地区だった。日本人学校もグルシャン地区にあり、スクールバスで全員通っていた。とはいっても、一学年に3人ぐらいしかいなくて、複式学級が当たり前だった。

 

当時住んでいた住所は、ダッカ市グルシャン地区ロードNo125、ハウスNo18で、グーグルマップで見てみると建物の外観は変わってしまったけど庭はそのまま残っていた。庭にはグアバの木があり、実がなると木に登って食べていた。門にはブーゲンビリアが咲き乱れ、日々草が塀のそばに植えられていた。

 

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Google マップ

 

Googleマップをみて驚いたのは、壁に落書きがされていて道路がきたないこと。前に書いたとおり、グルシャン、バナニ地区は高級住宅街で世界一人口密度が高く汚いと言われていた国でも快適に過ごすことが出来ていた。ゴミなんて道ばたに落ちてなくて、なぜならあまりにも貧しいからゴミすら拾ってお金に換えていたからだった。葉っぱもごはんを炊く時の燃料になるからといって、少年達がジュートの袋に入れて拾っていった。

 

そもそもバングラデシュは昔、東パキスタンと言ってヒンズー教のインドから別れてイスラム教の国になったところ。なのでモスクからコーランが流れ、断食をし年に1回牛を殺すお祭りがあったりした。少年達は外人を見ると手をさしのべ「バクシーバクシー」と施しを求めそれを「ジャ、ジャ」と追い払うのが日常となっていた。ほぼ裸で栄養失調のためお腹が出てる、自分と同じ位の年の少年達を追い払う外人。可哀想と言って何かあげると、すぐに100人単位で少年達に囲まれてしまう。マーケットに行けば使用人が盗んだ品物が平気で売っていたりする。日本語のままの「リキシャ」が往来し車は常にクラクションを鳴らしている。

 

僕がいたときも、クーデターがあったりして外出禁止になったけど、それはオールドダッカの方の話で、グルシャン、バナニ地区には影響がなかった。それほど治安がよかったグルシャン地区で、今回のような事件が起こったことがショックだった。

 

犯人は本当にベンガル人なのだろうか。そもそも、国旗を日本のようになりたいと日の丸をモチーフにして親日なイメージがある。ベンガル人は確かに貧しくて手癖が悪い人が多かったけど、それを除けば純粋な瞳の素直な人が多かった気がする。使用人のバブールとかタートルとよく遊んだし、青年海外協力隊の家に行って甘いミルクティを飲みながら、ずっとカロムをやっていた頃がなつかしい。あれから35年もたち、思い出深いグルシャン地区が血に染まった事を思うと、犠牲になった日本人に追悼の意とともに、やりきれない悲しさが心の沈む。

 

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亡くなった人達も、日本の代表としてバングラデシュの発展に力を注いでいたのに、テロで亡くなられたと思うと残念でならない。ご冥福をお祈りいたします。