【雑記】 落語の「芝浜」に見る様々な夫婦の形
先日、ブログのネタで落語の「芝浜」のことをちょっと書いた。立川談志の「芝浜」を聞いて、やっぱりいいなぁと思いながら、いろいろな落語家の「芝浜」を聞いた。話の筋は、全部同じなんだけど、女房のセリフや態度だったり、表現方法の違いによって受ける印象がぜんぜん違う。
芝浜とは
天秤棒一本で行商をしている、魚屋の勝は、腕はいいものの酒好きで、仕事でも飲みすぎて失敗が続き、さっぱりうだつが上がらない、裏長屋の貧乏暮らし。その日も女房に朝早く叩き起こされ、嫌々ながら芝の魚市場に仕入れに向かう。しかし時間が早過ぎたため市場はまだ開いていない。誰もいない、美しい夜明けの浜辺で顔を洗い、煙管を吹かしているうち、足元の海中に沈んだ革の財布を見つける。拾って開けると、中には目をむくような大金。有頂天になって自宅に飛んで帰り、さっそく飲み仲間を集め、大酒を呑む。
翌日、二日酔いで起き出した勝に女房、こんなに呑んで支払いをどうする気かとおかんむり。勝は拾った財布の金のことを訴えるが、女房は、そんなものは知らない、お前さんが金欲しさのあまり、酔ったまぎれの夢に見たんだろと言う。焦った勝は家中を引っ繰り返して財布を探すが、どこにも無い。彼は愕然として、ついに財布の件を夢と諦める。
夫婦の人情噺だけあって、マクラにはいろいろな夫婦の話が出てくる。
三遊亭圓楽のマクラは中年夫婦の悲哀の話。
林家たい平の「芝浜」は笑いが少なく、思いっきり人情噺にふってますね。
この落語のマクラは、結婚式のスピーチの話。このマクラがとてもよくて、書き起こしてみました。
僕が一番心に残っているスピーチというのが、直木賞作家の大沢在昌先生の話でございまして。たまたま披露宴を一緒にさせていただいた時に、その大沢先生が新郎新婦に言ったスピーチですね。だいたい結婚式のスピーチでは持ち上げたり、良いことしか言わない結婚式のスピーチの中で、まぁ大沢先生は、
「結婚するとほとんど失います。全てに近いくらい失います。自分の時間、自分の自由なお金、まぁいろんなものを失いますけれども、結婚をしないと得られないというものが結婚生活の中で確実にあります。そのなにかわからない一つを大きく大きく育ててください。」
まぁ これだけの短い挨拶だったんですけれども、私はそれが心に響いております。
20年たつ結婚生活で、得られたものはなんだろうと考えた。失った物といえば、好きな時に遊びに行けないし、自分の稼ぎなのに好きなものは買えないし、時間はないし、他の女性とエッチも出来ない。
じゃぁ、結婚して失敗だったかといえば絶対そんなことはない。お金がなくたって、時間がなくたって、絶対的な信頼を得られる家族がいれば、確実な安らぎを得ることが出来る。自分が不安になったり失敗したり、落ち込んだりしても家族とご飯を食べれば、なんとなく頑張ろうと思える。
たぶん独り身だったら、不安でしょうがなかっただろうし、絶対的な信頼の上に立つ安心はお金では買えない。そんなことを思いながら「芝浜」を聞くと、泣けてしょうがない。この感情は若いときには得られなかったものだ。
そう考えると、年を取ることも悪くはないなと思う。