泡沫で儚い記憶

あなたの幸せが ずっと、ずっと、つづきますように。 小さな砂粒があつまって、 大きな岩になるほどに。 その大きな岩の表面に コケが生えるほどまでに。

【雑記】 話をしていておもしろい人

 

ほぼ日刊イトイ新聞 - おとなの小論文教室。

 

話をしていて、おもしろい人と、
なんだか、つまらない人、
いったい何がちがうのだろうか?

私が、いま、話していて、おもしろい、
と感じる人には、共通点がある。

たとえば、私が、Aという問題について、
「どう思う?」と投げかけてみると、

私が、いま話していて、おもしろいと感じる人たちからは、
すぐにポン!と直線的な答えが
返ってくるわけではない。

私の投げかけをじっと受けとめて、
言葉を発するまでに、
独特の「間」がある。

この「間(ま)」、
会話にふっと訪れる静けさが私は好きだ。

気持ちを新たにしながら、
つつしんで、いったいどんな言葉が返ってくるのかを待つ。
どきどきもする。

しばしの沈黙ののち、
最初に発せられることばは、
一見、私の投げかけと距離のあるような、
意外な言葉だ。

 

若い頃は問いかけに対して即答出来ることが、かっこいいことだと思っていた。即答出来るというのは、仕事の出来る人、頭のいい人、ユーモアがある人。でもそれが間違いだと気がついたのは、パソコンのインストラクターになってからだった気がする。

 

生徒からの質問に即答することは簡単で、(他の生徒からも同じような質問が何度もあるし)なるべく即答するようにしていた。

でも

あるとき、生徒から「質問の意味はそうじゃないですよー」と言われることがあった。その時初めて、生徒にとっての答えが一つじゃ無いことに気がついた。それから質問に答えを与えることよりも、生徒の身になって何をその質問で求めているかを考えてから答えるようにした。

 

質問に対して、僕の思い込みでは無くAということかBということか確認してから答えをだした。同じような質問でも、生徒によって求めている回答が違う。だから質問の先にある相手の心情まで考えるようにした。

 

すると自然と、引用にあるようにゆっくりと考え会話をすることが出来るようになった。

 

一方、話をしていて、
なぜかつまらないと私が感じる人の共通点は、
1つはっきりある。

「予定調和」だ。

 

予定調和の回答ならググれば出てくる。当たり前の回答。予想に反しない回答。予定調和の回答ならテープレコーダーのように繰り返し出てくる。

たぶん知識の引出しは他の人より多いかもしれない。今でもクイズ番組などの回答では娘に負けない。でも知識の引出しを自分で開けて他の人に話すことは無くなった。

何の資料も無く、一時間以上離すことが出来るネタを持っている人はその趣味のオタクだと言われている。いくらでも話は出来るけれど、たぶん自分から話すことは無いと思う。年を取って、即答することがカッコ悪いことだと思ったからかもしれない。

 

でも、話ベタな人が、
「不勉強なもので」とか、
「無教養だから」という方向に、
逃げをつくってしまうことが、
私には、残念でならない。

たしかに、教養がたくさんあることは素晴らしい。
よく勉強をして話題やネタが豊富な人を、
わたしも好きだ。そこは否定しない。

でも、そうして、ネタを仕込み、勉強をして
ファイルをいつも、ぱんぱんにしておかないと、
私たちは、おもしろい話ができないのだろうか?

人がもっている経験や、その中から生まれた
さまざまな想い、感覚は、当人からみれば、ふつうで、
なんのおもしろいことではないかもしれない。
でも、自分とはちがう他人から観れば、
自分でおもうより、
よっぽど新鮮で、かけがえないかもしれない。
出して、みなければ、それは、わからない。

 

他人のブログを読んでいるのは、そういう価値観があるんだということを発見するためかもしれない。体験には限度があるから、本を読んで疑似体験を想像することが大切。

 

ブログで発する言葉は、今までの経験が発酵されて紡ぎ出されている。明日は考え方が変わっているかもしれない。だからブログで記録している。忘れないように、うたかたの事柄を記憶するように。